死に近づく時
映画「母と暮せば」をみた。
早くに亡くなった息子が、母の諦めが悪いばかりに、この世にひょこっと現れてしまうという話。
息子、昔の思い出を生き生きと話してるときはきちんと姿が見えているのだけど、悲しくて悲しくて涙が出るとスッと消えてしまう。
なんかこのシーン見覚えがあるなと思った。
そう、「ハウルの動く城」だ。
魔法で老婆に変えられてしまった主人公のソフィーは、意思を持って元気に行動している間だけ若返る。
でも、「自分なんて」と自信をなくすとたちまち老婆に戻ってしまう。
この描写って、決して作品の中だけの話じゃない気がする。
人間、振る舞いで生に近付いたり、死に近付いたりするのだ。
発展途上給食
たまらなく、給食を食べたくなる時がある。
教室を臭くさせる納豆、コッペパンにフルーツとクリームを挟んだだけの世界一周旅行パン、情緒のないブロック状のお好み焼き・・・。
独特のメニューセンスと雑さが懐かしい。
ところで、唯一大人になってからも給食を食べる権利を持つ者がいる。
教師だ。
大変羨ましい限りだが、私がある教師から聞いた給食は、それはそれは悲惨なものだった。
ベチョベチョのご飯、ゲロみたいな味のシチュー、糸を引かない納豆、港町なのにも関わらずなぜか不味い魚‥‥。
まず、納豆が糸を引かないって何だろうか。納豆からあの粘り気をとってしまったらただの煮豆ではないか。シチューに関しては不味く作る方が難しいと思う。
なんといっても、基本中の基本であるご飯さえまともに提供できないのはいよいよヤバい。
お米なんか私だって美味しく炊けるわ。
とはいえ、そんなクソマズ給食も一度苦情を出したところ以前よりはマシになったらしい。
いまは切ない発展途上給食も、少しずつ改善を重ね、地元の豊かな食材を活かした美味しい先進給食へと成長していくことを願いたい。
憧れの生活様式
「古いタイプの生活様式に新しい文化や技術が融合している」というスタイルにものすごく惹かれる。
例えば、普段から着物を着て過ごし毎日の食事は必ず和食、というような生活を営む三味線奏者が、音楽を聴くときだけは最新のワイヤレスイヤホンを使っているとか、
人里離れた田舎の村で農業を営むおじいちゃんが、実は農作物の管理をipadでやっちゃってるとか、そういうヤツである。
そこには、簡単に「温故知新」などとという言葉では表現しきれないスタイリッシュさがある。とにかく、俗世間から離れた生活を送っているがために何もかも時代に取り残されているのかと思いきや、実はある所ではめちゃくちゃ最先端イってた、みたいなちぐはぐさが超かっこよくみえてしまうのだ。
この話を友達に語ったところ
「なるほど、山奥の仏像職人が3Dプリンタで仏像作ってる、みたいなことか!」
と、イメージ的にはイイ線いってるのだが全然ダメな答えが返ってきた。
あくまでも、長年の経験で培われた人間の感覚や伝統文化を重んじるスタイルは崩さない、ということが私の中では重要なのである。
揺るぎない価値観のもと、古来のやり方を守りながら世の中の動きにも目を向け、適宜新しい文化や技術を取り入れる柔軟性も持ち合わせているという人に憧れるのだ。
このことを伝えると今度は、
「わかった、セグウェイにのって寺の敷地内を移動する住職みたいな感じか!」
と返ってきた。
彼はなぜ寺系から離れないのだろうか。
それにしても、わたしのとりとめのない話を一生懸命理解しようとしてくれるのだから有難い。
とりあえず私は将来、こういうニュアンスで柔軟なカッコイイ大人になる予定である。
死ぬタイミング
『無人の森で木が倒れたら音はするのか』
答えは、「しない」だそうだ(あくまでも哲学的な話)
音波は知覚されてはじめて音になる。だから、森で発せられた音波を知覚する人がいないのであれば音はしないのだ。つまり音とは、存在ではなくただの認識ということになる。
私たちも音波みたいなもので、誰かの中のただの認識に過ぎないのかもしれない。
私を私たらしめるのは周りの誰かであって、私ではない。「自分自身」という曖昧で形のない波は、誰かに知覚されないと存在することができないのだ。
だからこそ、なかったことにされるって、つらい。いま私は、私と私を取り巻く少しの集団の中では生きていることになっている。
でも、誰かの中ではもうとっくに死んでいるのかもしれない。
つくる
ケーキを作るように、晩御飯を作るように、彼女や彼氏を「つくる」と言うの、もうやめちゃえよ。そもそも、どんな成分を調合すれば恋人が出来上がるのだ。
ところで私は「コーヒーいれるけど飲む?」と聞いてくれるような人がそばにいる生活っていいな、と思う。
それはつまり恋人のことか、と聞かれればそうなのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。