ツルです。

あおやけのお風呂

夕方、暗くなる前に空が真っ青になる「あおやけ」が好きだった。
この短い時間帯を狙ってわざと電気をつけずお風呂に入ると、外からの青い光を吸収した水はいつもよりもずっと透明で美しくみえた。

一人暮らしを始めてからは、あおやけのお風呂に入ることがなくなった。窓がないので、外の光が入らないのだ。

ああ、久しぶりに実家に帰って、透明すぎる青い水であったまりたい。
リビングからテレビの声や夕飯を作る音が聞こえてくれば、もっと良い。

殺し得ること

殺人事件のニュースを見ると、大概の人が「恐ろしい」「同じ人間だとは思えない」と言う。
私も言ったことがあるし、きっとあなたも眉をしかめて犯人を責めたことがあるだろう。
しかし、私たちは平気な顔して犯人を責めていていいのだろうか。

 

“誰の心の中にもひとりの殺人者が潜んでいて、呼び覚まされる条件が整うときをじっと待っているのかもしれない”/ユリゴコロ

 

テレビの中の殺人者と、それをリビングでみているわたし。違いは「殺すに至るまでの条件が整ったかそうでないか」ただそれだけなのだとしたら、人ごとではない。こんな風に考えるのはとても恐ろしい。けれど、大事なことの気がする。
もし、悪を批判し責めることに落ち着きそこで思考を止めてしまったなら、きっとまた誰かが殺されるだろう。

それはもしかしたら、わたしの手によって。

言い過ぎだろうか?

しかし、自分が正しいと思い込み微塵も疑わず行動する人間すべてに、人殺しさえ起こしかねない危うさがあると思う。
自分の中に目覚め得る殺人犯に目を向けたことのないひとに、殺し合いのない世界を望む資格なんてないのだ。

「見ててね」

「見てる?ねえ見てる?ちゃんと見ててね」

こどものころ、母に何度も確認した。見ていて欲しいという気持ちは、口に出して欲しがらなくなっただけで誰もが持っているものだ。

でも、これから先「ちゃんと見てるからね」と言ってくれる人はどんどん少なくなっていく。
だから私たちは「誰か、見て、見て」と叫ぶ子どものままの心を、SNSの投稿や呟き、そして「いいね」で満たし合う。
私はこんな時代で、私を保って生きている。

薄い

すごく良い洋画を観終わった後、続けて、あるアイドルが主演を務めているB級コメディー映画を観た。
そもそも観る順番が失敗だったのだろう。

B級コメディーの薄っぺらさに、思わず一緒に観ていた友達と「うっす〜〜〜〜」と叫んでいた。

そして何故か、どのくらい薄いかをものに例える遊びが始まった。

「和紙!和紙くらいの薄さ」
「いやこの薄さはまるで湯葉
「もっとでしょ、鰹節?」

例えてみるのだが、困ったことにどうしても「薄ければ薄いほど良いもの」しか浮かんでこない。

悩んだ末「めちゃくちゃ薄めたカルピス」という答えに落ち着いたが、負けた感はハンパなかった。

自分探しをしているその自分は誰なんだ

確固たる個性を確立して、独立して生きなければならないと思っていた。
ひとは個性的なほど良いと思っていたし、ハリガネムシに寄生されているカマキリは可哀想だと思っていた。

でも、そうじゃなかった。

自分とか個性とか、そういうのってそもそもあるようでないものなのだ。
脊椎動物が誕生して5億年の間、人間の身体にはたくさんのウイルスが入りこみ、そのまま住み着いてウイルス由来の遺伝子というのが出来たらしい。

つまり私たち、1個の生命体にみえて、たくさんのヒトではない生き物と共生しているのだ。

こんな仮説を立てている人がいた。

『チョウチョは、かつてひらひら飛ぶ成虫としてのチョウチョと、葉っぱをかじってモゾモゾ動く幼虫としてのイモムシ、全く別の生き物だったのが一緒になって、2つの生命体ひっくるめた「チョウチョ」に進化したのかもしれない。』

もしこんな話があり得るのなら、カマキリとハリガネムシだってこのパターンだと考えてもおかしくない。可哀想もクソもないじゃないか。

人なのか昆虫なのか、生物なのか哲学なのか、一体なんの話なのやらという感じで私も頭の中がこんがらがってきたところだ。でもとにかく、そんなもんなんだ、個性なんて。

ブレブレどころか、色んな私がいていいんだ。だってそもそも、私の中には私じゃない生命体が住んでいるんだし。「個性」や「自分」が、その性質や成分が変わることなく固定して存在すべきものだと思っているから、ブレブレな自分を否定しちゃうのだ。

ブレててもいいじゃないか。

自分探しなんてやめちまおう。

正しいは恐ろしい

Yahoo!知恵袋で「祖母がやたら差別用語を使ってくることが不快です」という質問をみかけた。それに対しての回答は、

「(前略)もしいま私たちが普通に使っている言葉が、例えば何十年後とかにそれは差別語だから使うのはやめましょうと言われても、なかなかやめる事はできない。質問者さんの祖母のケースは、そうやって考えるとわかりやすいかと思います。」

というものだった。

これを読んだとき、その冷静さと優しさに思わず感心してしまった。
差別用語を使うことについて、良いか悪いかで評価するなら、そりゃ悪いに決まっている。
でも、ただ否定し非難することをやめてみると、見えてくるものがあるのだ、きっと。

私も、相手の言動が自分の道徳観に反していたとき、自分の中にある正しさがあまりにも輝いて見えてしまって、つい相手の立場になって考えることを忘れてしまうことがある。すごくよくある。
「正しい」のそばには、謙虚さと相手への逃げ道もセットで置いとかないといけないのだ。

音楽は洋服か?

「普段どんな音楽聴くの?」と聞かれた時、困ってしまうことが多い。

なぜなら、この質問での「音楽」は、相手の人間性や性格を推し量るものさしとして使われることが多いからだ。

私は、邦楽も洋楽もロックもアイドルも演歌も昭和歌謡もピアノも吹奏楽もラップも、とにかく世代やジャンル関係なくいろんな音楽が好きだ。

だから、好きな音楽を聞かれたときにどれを代表して答えれば良いのか戸惑ってしまう。そして、悩んだ挙句いくつか挙げてみると「幅広いんだねえ〜」なんて言われてしまう。

私の中では、くるりフジファブリックが好きな気持ち、RADWIMPSBUMP OF CHICKENが好きな気持ち、AKB48TOKIOが好きな気持ち、浜田省吾ORIGINAL LOVEが好きな気持ち‥‥

挙げだしたらきりがないが、それらすべて一見バラバラに見えて一本の線で繋がっているのだけど。

確かに、好きな音楽はその人のファッションや人柄を分かりやすく表している場合が多い。偏見かもしれないけれど、キラキラした女子高生が「miwaや大原櫻子が好き」と言っていればそうだよねと思うし、マッシュで古着好きの大学生が邦ロックを愛でていたら、わかるわかると頷ける。

でもそんな中、たとえば森進一と嵐が好きな気持ちに優劣をつけられない人がいたとしたらどうだろう。「森進一と答えたら変に古風な印象を持たれるかな」「嵐と答えたら過激なファンだと思われるかな」なんていちいち気にしなきゃいけないのは、窮屈だ。

音楽は洋服じゃない。おしゃれに見られたいからって、好きでもないのに無理やりSuchmosをきく、なんて滑稽だし疲れちゃう。

こないだ「学生は 、J POPとか日本をダメにするタイプの音楽が好きだよね。もっとトガった良い音楽をきけよ」なんて言っちゃってる人がいて、つまんないなあと思ってしまった。

どんな意図で、どんな形で生産されたとしても、その音楽が誰かの心の奥にある「好き」にひっかかったのなら、それでいいじゃないか。そのときの感動は誰にも否定できないはずだ。あなたが好きな音楽も、私が好きな音楽も、全部素晴らしくて、誇らしいのだ。