ツルです。

言い当て力

頭の中ではたくさんたくさん考えているのに、いちばん大事な場面に限って言葉足らずでうまく伝えられない、ということが非常に多い。
文章は考えながら書けるが、リアルコミュニケーションとなると思考を言語化するまでの猶予がない。なんだかモゴモゴしているうちに、相手の集中力と話題の賞味期限は切れているのである。

この間、同期Aに「私ってどんなキャラクターに見えてる?」と聞かれたので、「なんか、Aちゃんに嫌われたら人間として終わりって感じ!」と答えたらキョトンとされた。そりゃそうである。

そしていつものモゴモゴモード突入かと思いきや、私を救ってくれたのは言語化の天才である同期Bの一言だった。

「わかるよ、Aは倫理の最終防衛ラインだよね」

倫理の!最終防衛ライン!それだよそれそれ、そういうことが言いたかった。私の超あいまいな感覚言葉を理解してくれてありがとう!

・・・と感心しつつ、同時に虚しくなってしまった。人類が長年かけて築いてきた言語という便利ツールを、私は全く活用できていないじゃないか。

フワッとした表現でも、その場で共有可能な言語に翻訳して伝えられる人ってかっこいい。

私も「言い当て力」、つけたい。

祖母が次のステージに行こうとしている、という仮説

父方の祖母がボケ始めている。

突然「だけど、」と話し始めたかと思えばそこから延々とニコニコ黙ったままだし、トマトのサラダには積極的にトマトを添えようとする。

私は地元を離れ長らく一人暮らしをしていたが、大学卒業を機にいったん実家へ帰る予定なので、今度ひさびさに祖母と顔を合わすことができる。

先日、姉がそのことを祖母に報告したらしく、「もうすぐでツルちゃんが帰ってくるよ。次に帰ってくるときは22歳になってるよ〜」と話したところ、「同級生になるねえ」と返ってきたらしい。

姉は27歳である。

こういう話をきかされるたび、笑っちゃうような、でもちょっと切ないような気持ちになる。

しかしまてよ、と思う。

認知症が病気ではなく、人類が次のステージに向かうための第2段階に過ぎないのだとしたら、ちょっと面白いのではないか(次のステージってなんだろう、SFの読みすぎだろうか)。

つまり、ある時期を境に全く別の世界が目に映るようになる何らかの必然的なシステムがあり、その正常なバグに気づいていない我々が勝手に「病気」と位置付けているのでは‥‥!

 

深夜の妄想はここまでにしておこうと思う。

凍蠅よ。

『凍蠅よ 生産性の 我にあるや』

あるバラエティ番組でみかけた句である。

結露した窓ガラスにジッと固まった状態ではりつくハエを眺めながら「私に“生産性”はあるのだろうか?」と自問自答する、という情景をあらわしているらしい。

例の発言のことを単純に批判するのではなく、「自分はどうなんだ?」と自らを見つめる光景だけをシンプルに表現しているのが良い。

私たちは他人事になりがちで、自分自身に他人を排除するような思考がありはしないか、自分を疑うことをつい怠けてしまう。

ピッタリと窓にはりつくハエをみて「お前そんなんで生産性あるのかよ!」と揶揄した瞬間、全く同じ問いを自分自身に向けられる人でなければならないと思う。

おさまりの悪い弁当

不健康で非文化的な生活に小さく絶望しながら、コンビニ弁当をレンジに入れる。

色とりどりのおかずやブロック状に敷き詰められたごはんが、オレンジ色の光を浴びながら回っている。

 

回る弁当を眺めながら、母が作る弁当を思い出していた。茶色いおかず、握ったというより「固めた」と表現する方がふさわしい歪な形のおにぎりなどが敷きつめられたそれは、ほとんど毎回、きちんとフタが閉まっていなかった。

そんなおさまりの悪い弁当を思い出し、ひとりフッと笑ったところで、インターホンが鳴る。宅配便で届いたのは、母からの仕送りだった。まるで監視されているかのようなタイミングにぎょっとする。

送るなら事前に連絡くらいして欲しいな、と思いながらも少しワクワクした気持ちで箱を開けると、ご当地レトルトカレー、小魚とくるみの佃煮、らっきょう、大量のカプリコなどが顔を出す。相変わらず独特なラインナップだ。母は、一度でも私が「これ好き」と呟いた食べ物は大量に買ってくる。(カプリコにハマっていたのは高校の頃の話なのだが)

そして、これらの食材が、クシャクシャの地元新聞や銀行がくれた粗品のタオルなどと一緒に敷き詰められていた。


仕送りさえも、おさまりが悪い。


ダンボールから全て出しおわったところで、ふと、空っぽの箱を見つめる。

まだ、地元の空気は入っているだろうか。
実家の匂いは、残っているだろうか。

ダンボールに顔をつっこんでみるが、ダンボールの匂いしかしない。
じわっとする気持ちは見ないふりで、すくっと立ち上がり、少し冷めてしまった弁当に手を伸ばす。


 今はとにかく、おさまりの悪さだけが恋しかった。

 

/「食卓」寄稿文 

何にでもなれそうな夜

友だちのギャルから不意にLINEがくる。

「虚無」

彼女の嘆きはいつも手短だ。

特に核心には触れず、具体的な話をすることもなく、最終的に「後悔するかもしれない決断は日が昇ってからした方が良さそう」という結論に落ち着いた。

「テレビから歌うたいのバラッド流れてきて泣きそう」

「こんないい曲やっけ。ギャルやのに響いた、音域エグ」

そしてURLが送られてくる。

彼女がひっそり更新している歌声配信のSNS。2分前に「歌うたいのバラッド」を見つけた。

 

私たち、語彙も知識もないけれど、どっかの誰かが作ってくれた言語や記号やツールを使ってこんなにもたくさん表現する術を知っている。

遠くて遠い人とも、近くて遠いひととも、簡単に近づける。好きなものを好きだと言える。

私も君も、きっと何にでもなれるし、どこへでもいけるのだ。

そんな無責任っぽい言葉を呟いても許されるような、微かな全能感に包まれた夜を過ごしている。

ばあちゃん

私のばあちゃんは、不器用だ。

そのくせ凝ったことをしがちである。

例えば料理。

ばあちゃんが作る料理は一言で表せば図工で、好奇心と自己満足で成り立っている。

だから、朝から思いつきでグラタンを作ってみたりする。もちろん図工なので、ホワイトソースから手作りである。そして不器用なので、一見ニョッキと見間違えるような、固まったホワイトソース入りのグラタンが出来上がる。

悲しいことに、ばあちゃんの料理は「相手が食べたいかどうか」によらない。凝ったソースを作ってる私、グラタンを焼く私、が美味しくて楽しいのである。

だからばあちゃんの料理は、出来上がった瞬間に終わっている。こう、色んな意味で。

料理って本来、「ほうれん草のお浸しはしっかり水をきって出汁醤油をかけて食べる」とか、そういう単純なものだと思うのだけど。

ただ、それ故にばあちゃんは、こだわりがなくて、適当で、変なプライドもなくて、絶対に人を否定しない。

そんな、すんごく居心地の良いばあちゃんのことが大好きなのである。

 

 

一瞬の懐かしさ

同じ「懐かしい」でも、しみじみ浸るものと、一瞬込み上げてパッと消えるものとがある。

後者はやたら、賞味期限が短い。

その数分間の全てが魅力のピークで、始まった途端に終わってしまうクライマックス、という感じ。

それは、地元スーパーの音楽、通学で使っていた無人駅、家族とのドライブで寄った深夜のサービスエリアなんかに、ひっそりと宿っていたりする。